ホーム > 留萌の四季 > 武四郎も歩いたセムシの浜の賑い

留萌の四季

武四郎も歩いたセムシの浜の賑い

takesiro-title.gif
15-1_thumb.jpg
平成18年8月6日 涼を求める人で溢れかえったゴールデンビーチ

今年の7月から8月にかけての、日本海オロロンラインは、例年になく暑かった。
8月5日の土曜日から日曜日にかけては、多少の波はあったが、快晴となり、6日は、午前10時で最高気温28.8度を記録し、平年より3.9度も熱い夏日となった。
涼を求めて、大勢の海水浴客が、ここ留萌の瀬越浜に押しかけてきた。
前夜からのキャンプ族は、朝になると、昨夜の喧騒による寝不足に目をこすりながらも、気温の上昇につれて、熱い砂の上で気だるい日光浴。
その日に、海水浴にやって来た人は、カラフルなテント群を敬遠して、もっと広い奥の砂浜へ陣取り、裸足の足裏の熱さに悲鳴を上げながら、ドボンと海につかり、一瞬体を駆け巡る冷たさと潮の匂いに、満足、満足。
私は、この日、朝早くから、撮影日和を感じ、ビューポイント捜しに移動中でした。
この写真の撮影時刻は、丁度10時頃でしたから、さらに入り込みが増え続け、地元新聞の報道では、延べ一万五千人の来場があったそうです。
殆ど、管外からの訪問なので、留萌に住むものとして、大変嬉しい出来事でした。
今から160年前に、北海道の名付け親、松浦武四郎が、この浜を通過探検しております。
その廻浦日記によりますと、現在の瀬越の地名は、当時アイヌ語でセムシ。
「本名セモシなるべし。此処より九折を上る。海岸を行時は大岩石峨々たる難所なり。」とあるので、セムシの先は岩石の海岸線となり、今の黄金岬の地形と符合します。
また、東西蝦夷山川地理取調では、「セムシ、ルルモッペ川より吹出す川風烈敷処故に、かく号るといふ。」とあり、荒波の瀬越浜という場所だったのでしょうか。
当時、隣接の礼受の浜は、和人の出稼ぎ小屋が建ち並び繁盛しており、セムシの浜も早くからニシン漁で開け、豊魚に沸いた頃は、ニシン船が前浜に並び活気づいていました。
番屋が建てられ、春になると本州から出稼ぎ者、やん衆が多数やって来た。
崖下の狭い土地に加工の納屋が並び、身欠を干す、サキリと呼ばれる丸太で組み立てられた干し場が所狭しと続いた。
また、大正時代から、夏になると涼を求め、内陸部から人々が訪れており、シーズン中は、国鉄で臨時降車場を開設して便を図ったほど、管内唯一の海水浴場として賑った。
しかし、昭和30年を最後に、ニシンは沿岸から姿を消し、広い砂浜からは人の姿も消えてしまった。
私の小学校時代は、まだまだニシン豊漁の頃でした。
夏になると、毎日近所の子供達と一緒に、黒三角ふんどしに、裸足のまま瀬越浜に通い、溺れかけ助けられ、浅瀬を潜って獲物を獲り腹を満たし、悪戯をしては大人にこっぴどく折檻された、そんな懐かしい思い出の浜でした。
広い砂浜には、簡易テントの売店が幾十となく並び、地元産の魚介類を水槽に放ち、これを浜弁丸出しでガイドする水族館も現れ、短いシーズンでしたが、大勢の人が海水浴を楽しんでいました。
そんな海水浴場も、やがて、海岸浸食が進み、次第に姿を消してゆきました。
海水浴場は、その後南の浜中へと移動しましたが、昭和59年から始まった、北海道建設部所管のCCZ(コースタル・コミュニテイ・ゾーン) 事業により、姿を変えて瀬越の浜が、また、海水浴場として復活したのです。
そして、8月6日の浜辺の大繁盛となって実を結びました。
所謂、親水護岸として、水辺では季節毎の釣果を求めて釣り人が、海岸線に沿って整備された道路では、ドライブ以外にジョギングやマラソン、犬との散歩、夕陽の鑑賞等、今や市民にとっては、無くてはならない憩いの場所となってしまいました。
写真では、手前と向こうの突堤に囲まれた、2個所の海水浴場が、ゴールデンビーチとして来場者に解放されています。

15-2_thumb.jpg
海底まで澄み渡る黄金岬海岸より望む暑寒連峰
遠景の左端が、岩場で夕陽のスポットとして名高い「黄金岬」です。
丘の上に並ぶ建物群は、ホテルならぬマンションですが、そこから望む、秀峰暑寒別岳を背景にした海山の景色は、四季毎に見る人を引き付けます。
夏の穏やかな海と吹雪の中で荒れ狂う怒涛の海は、全く様相を異にします。
波が岩に当り砕け散る時の腹にどんと来る地響き音と、波の散華する儚さは、見ている人の心底を魅了し、寒さも時間も忘れさせてくれます。
生きる力をくれる時もあります。
来年も、夏の暑さと凪が続き、近い将来、この賑いが一時であっても、ニシンに替わる「群来(くき)」の一つとなるよう、思いを込めて写しました。



平成18年8月起稿
小 杉 忠 利

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:

RSSフィード