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留萌の四季

春暁の利尻岳と残された117日

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朝日を受けてひだ模様の美しい利尻岳(浜勇知より)

平成15年3月22日。
春分の日と日曜日にはさまれ、北海道が移動性高気圧に覆われた絶好の快晴日。
例により、天候は生き物と、夜中の3時に家を出発し、今日はサロベツ原野の稚咲内、砂丘林の散策へ。
夜明けは5時前ころから始まり、山の稜線から、次第に色を濃くして、見事な陽が昇る。
海上を見ると、雪の利尻岳が、珍しく雲ひとつ無く、見えているではないか。
北に足を伸ばし、浜勇知から山側へ入り、カメラ機材を入れたザックを背負い、ポイント探しへ。
利尻岳の四季折々の写真は、多くの人が写しているので珍しくはないが、この山はかなり崩壊が進み、尾根と谷の、その襞模様の複雑さが、特徴の山でもある。
雪山と朝日と大気の清澄が、山の表情をより深いものにしている。
凍った雪原に、キタキツネの足跡が数列。
「おーっと」熊の足跡も、少し消えかかってはいるが残っている。
昨日のものか。
周囲をぐるっと見渡して、黒い塊で動くものは何もないのを確認してから撮影に入る。
終わって、また稚咲内まで戻り、夏期は沼沢地帯で立ち入ることのできない、砂丘林の縁を、スキーで氷雪上の旅人となって、気ままに散策し、気持ちの良い汗をかくことができた。
エゾシカの一家の雪の寝座(ネグラ)跡と大量に散らばる丸い糞の置き土産は、砂丘林に入ると、至る所で見つかった。
これだけの痕跡があっても、用心深い野性の鹿の姿を見ることはなかった。
雪山が淡いバラ色に染まるこの朝の利尻岳は、以下の定めにより、私には忘れられぬ写真となった。
昭和60年7月のある日、私は東京に在住の友人Yと、稚内公園にある「開基百年記念塔」の展望室にいた。
高さ80mもあるこの塔は、昭和53年に、この北の果ての、丘の上に建設された。
鉄筋コンクリ-ト中空型の塔の中心には、エレベーターシャフトがあり、強風による横ブレを防ぐための特殊コンクリ-トの設計を担当し、彼は見事成功させた。
努力家のYは、その3年後の41歳の時、在職のまま、コンクリ-トで工学の博士号を取得した。
Yと私は同じ年で、30歳ころから、仕事を通じての飲み仲間であったが、何故か気が合い、私が脱サラしても、変わらず付き合っていた。
郷里で、私が会社を興す時、「業登録」申請を頼むと、東京にあった役所へ、二つ返事で持参してくれた。
その代り、仕事でYが北海道へ来ると、有無を言わせず、私が札幌へ出て行って飲むことになる。
稚内まで足を伸ばしたのも、そんな用事の延長線でのことだった。
展望台の遥か向こうに霞んで見えるサハリンよりも、間近に見える利尻岳を見て、何時か時間が取れたら、利尻へ行くことを約束した。
平成元年には、在職25年慰労で、奥さんと我が家まで遊びに来、稚内まで足を伸ばしたが、利尻まで行く時間はなかった。
その後も、仕事にかこつけて、東京や北海道での交友は続いていた。
そして、平成15年。
この年の6月10日、しばらく会っていなかったので、自宅に電話した。
奥さんが出て来て、昨年の11月に食道ガンで入院し、一度よくなり退院したが、現在、喉に転移し再入院しており、面接もできない状態とのこと。
そのまま絶句し、何か見舞いの言葉を言って電話を切った後、部屋を閉め切り、涙が溢れるままに、10分間ほど泣く。
どうして、あんなに元気だったYが、こんな試練を受けなければならないのだ!
午後から会議があり、車を運転して札幌へ行くも、涙を拭きながらの運転。
会議から帰社後、見舞いに行けない無念さを、手紙に記し、奥さんへFAX入れる。
話は纏まらなかったが、見合いの段取りまで、Yに心配かけた娘が、来月7月に結婚することになったので、二人に札幌の挙式に来てもらう頼みも、夢のままに終わりそうだ。
この週の14と15の土日にかけて、仲間と暑寒別岳登山をすることになっていた。
その年は、山の雪融けが遅く、夏道も所々雪に隠れ、名物のタケノコもまだだった。
年のせいを、昨夜の山小屋での酒のせいにして、途中から私一人Uターンをして、戻ることにした。

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箸別パイロットファーム跡の草原より暑寒別岳
箸別コ-スの牧草地跡に立ち、今来た暑寒別岳に向かい、Yの回復をひたすら祈った。
突然、上空から「シャシャシャシャシャー」という、大きな風切りの連続音。
夏の渡り鳥、遥か9千キロも離れた、オ-ストラリアから来た、オオジシギだ。
200mもあろうか、天の1点から、羽切り音をたてて急降下し、地上近くでタ-ンする時、「ジャッチャー、ジャッチャー」と、けたたましい鳴き声をあげる。
大草原の上での、彼らの求愛行為なのだ。
何組もの番(ツガイ)が、広い上空でこれを繰り返しているのを、何度も体の向きを変えながら、見ていると、何もかも忘れて、ただ時間だけが経っていく。
この生きることへの感動を、YにFAXした。
6月20日に、本人が退院を強行し、自宅に戻ったことが、奥さんから報告された。
30日に見舞いにと、上京の手配をする。
しかし、27日に、状態悪く再入院。
上京キャンセル。
7月17日。
ついに願いは空しく、生きる望みを拒絶され、痛さをこらえながら、Yは旅立ってしまった。
この日は、偶然とはいえ、私の家内の誕生日でもあった。
家内の誕生日が来る限り、Yも生きている。
この朝焼けの利尻岳を撮った、117日後に、何時か行きたいと言った旅への約束を果たせぬまま、突然に彼は逝ってしまった。
春暁の利尻岳は、切ない別れを予告する写真となってしまった。
「お~い小杉よ、明日、札幌へ行くぞ」と、何時ものように電話が掛かってきても不思議でないと、心の中では、今も思っている。

平成16年2月起稿
小 杉 忠 利

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