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留萌の四季

留萌川の大水害に明け暮れた日々

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汚泥洪水の市街 山すその留萌川 JR線と道路はすべて水浸し

昭和63年8月26日 早朝5時 突然鳴る電話に慌てて飛び起きる。
「もしもしこちらKでございますが、どちらさまでしょうか」
「こちらRですが、留萌川が氾濫しております。大至急、できるだけ沢山の応援をお願いしたいのですが」
私Kは少々寝ボケ声で、「はい判りました。何時までお伺いすればよろしいでしょうか」
「緊急事態なので、すぐお願いします」
「はい、了解いたしました」
ここで私も完全に眠気も吹き飛び、外を見やると、昨夜来の雨が、まだ間断なく強く降り続いている。
連絡網により電話連絡をすると、全社員の内2名は既に避難して、自宅に不在なことが判る。
とりあえず、当社責任者1名をRとの打合せに向かわせ、会社に出勤できる社員が揃ったのが6時。会社での留守番を決め、班編成をし、とにかく現状の把握に全員出発。
その他の者で炊き出しの段取りと、川はまだ増水しているので、職員の内、被害を受ける恐れのある家族との連絡に当たる。
午前7時、避難している家族の家を視察する。幸い、今のところは大丈夫だ。
大サイレンが鳴り響き、街は妙に静まり返っていて、今にも水が押し寄せてきそうな気配。
市街地より港湾東端に沿って走る市道は、既に交通止めになっている。
国道232号の栄萌橋も止められているので、羽幌方面から留萌に入ることは出来なくなっている。
留萌駅付近に来た時、路上のマンホ-ルから、水が噴出し始めているのを見る。
雨は小降りになったが、依然として降り続いている。
会社に戻り異常がないことを確認していると、実家より、道路冠水が始まり、2階へ荷物を移動しているとの連絡が入る。
後を頼み、家内と二人で急行する。実家は港に近接した場所にあるため、水が集まってくる。
知り合いの応援の人達に加わり、荷の移動を始める。
午前9時30分。外の市道を見ると、黄褐色に濁った泥水が、ひたひたと押し寄せ始めている。
これは危ないと、車庫の自動車を高い所まで避難し、戻ってくると、水は既にひざ下まで。
車高のあるボンゴ車も危なくなりこれも移動。
重たくて2階へ移動できない家具類はそのままにし、殆ど完了する。
床上浸水が始まる直前家を脱出する。既に股下まで。
道路は、まるで川のようになり、茶色の重さをもった泥水がとうとうと流れている。
高い方向へ10mも移動すると、もう水は無い。
気がつくと、雨はもう止んでいた。後は水の引くのを待つよりしようがない。
午前11時30分。水が殆ど引き、太陽も顔を出し始める。
現地調査班も異状無しなので、再び実家に戻り後片付けにかかる。
建物の中に入ってきた水は淀みとなり、運んできた置き土産の泥が、床一面に溜っている。
早速、泥の掻きだしと水洗い。電気、電話は不通。回復の見込みが聞けない。
空にはセスナ機やヘリコプタ-が次々と飛来し、うるさくて話も出来ない。
力仕事を終わらせて、会社へ戻る。
こうして、26日に始まった、留萌市を狙い打ちの熱帯性低気圧前線による、大雨洪水との付き合いは、1ヶ月余に及ぶこととなった。
昭和56年には、北海道全域を襲う大雨が発生し、この年は100年あるいは150年確率の洪水といわれていたが、それから10年も経過しないうちに、留萌地域が、集中的に大雨に見舞われてしまった。
しかも、この地域に降った雨は、殆どが留萌川に集まってしまったので、ほかの地域には迷惑をかけなかったという不思議な雨だった。
今度は200年確率だという。自然の確率なんて、何と当てにならないことか。
留萌地区の過去の災害を比較してみると、以下の表のようになる。

発生年月日 流域の連続
最大降雨量
計画降雨量
に対する比
一 般 被 害 氾濫区域
S30.8.17
~18
峠 下
201mm
80 農地 1,882ha 床下 1,323戸
床上 1,812戸
 
S50.8.22
~23
峠 下
171mm
68 水田 207ha 畑 12ha
床下 7戸(31人) 床上 37戸(162人)
 
S56.8.4
~6
峠 下
287mm
114 水田 400ha 畑 265ha
床下 130棟 167世帯(531人)
床上 86棟 101世帯(302人)
4km2
S63.8.25
~26
峠 下
370mm
147 水田 428ha 畑 149ha 9月5日現在
床下 1,265棟 1,288世帯(4,201人)
床上 2,080棟 2,391世帯(5,212人)
12km2
今回の大雨の特徴は、24時間の短い間に400ミリという大量の雨が、この地域に集中的に降ったことにある。
留萌川の計画降雨量を約50%も越えてしまったため、最終的に下流で堤防を越流してしまい、市街地が大きな被害を受けることになった。
港を懐に抱え込む街の水害の特徴は、水の引きが内陸部に比べて非常に早いことであった。
水が引き、泥が片付けられると、街は元に戻ったかに見えるが、床下の断熱材に残された泥と臭いは、素直に引いてはくれない。
火災保険に入っている家屋は多いが、水害特約付きの災害保険に加入している住宅は殆ど無かった。
私の実家もすぐ特約付きに切り替えたが、時すでに遅しである。
風が吹けば桶屋が儲かるの話ではないが、大工さんは一時大忙しであった。
しかし、市内の住宅の殆どが被害にあったことを見ても、経済的な打撃は、可なりのものであったことは間違いない。
自分は無災であっても、親類縁者の誰かが被害にあっている。
ここで、今回大立ち回りを演じた加害者の生い立ちについて少し述べてみよう。
留萌という語源は、アイヌ語の「ルルモッペ」よりきている。
「海水が静かで、いつもあるもの」という意味だという。
先住民であるアイヌの人たちは、ゆるやかに流れている留萌川を見てそう呼んでいた。
それが、いつしか、留萌川の河口の辺りをルルモッペと呼ぶようになった。
留萌川は、天塩山系の南端、空知と留萌の分水嶺から発し、途中ポンルルモッペ川、タルマップ川、中幌糠川、チバべり川、12線川の諸川を集めて西流し、日本海へ注いでいる。
かっては、総延長72kmもあり、その蛇行箇所は400もあったという。
現在は、河川の改修が続けられた結果、総延長約30kmになった。
西暦1600年ころ、徳川直轄領としてのルルモッペ場所が開設されて以来、深く流れの遅い河口が、200~300石積みの交易船が停泊できる、良港として利用されていた。
更に、200年後の明治29年、内陸部の開拓が実施されるようになってからは、入植者の唯一の交通路として利用され、明治43年の鉄道開通までそれが続いた。
その後、大正12年にル-トは河口部で大幅に切り替えられ、昭和6年に河口は留萌港となり、往時の留萌川は埋め立てられ、今は市街地となっている。
この8月26日に溢れだした水による洪水が、ほんの数時間のドラマと思うなら、大正の終わり頃からの60有余年の川筋の変わりようが余りにも激しく、つい懐かしくなって、元の古巣へ戻りたくなったのではないだろうか。
留萌川は、そこに住む人々の歴史と共に、手足を変化させながら歩んできた。
今度は、留萌ダムを人と川の関わりの中で、水害を調節する者として登場させようとしている。
8月の洪水も、これで当分の間、お別れとなる。

昭和63年起稿
小 杉 忠 利

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