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留萌の四季

しごきに明け暮れた山のフラッシュバック

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新人訓練合宿 奥穂高岳を背景に18人の山男達

学生時代、山の部活の4年間には、とても辛いことがあったはずなのですが、時間をおいた今思い起こせることは、幸せな思い出ばかりです。
そのばらばらな記憶を、古きものから書き留めてみました。
登場する、身に覚えのある方には、恥をさらすことになるかもしれませんので、前もってお詫び申し上げます。

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北ア夏山合宿沈殿日
背中に負う荷ですり切れたシャツ!
40年以上も前のセピア色の物語なので、「むかし、むかし、ある所に、とても山好きな若者がおりました」という、昔話として許していただければと思っております。
書いているうちに、あの4年間は、卒業後の暮らしに比べて、何と自由で、若さ溢れる一瞬だったのだろうと、改めて、汗臭く、バイトに明け暮れた山での青春を享受しております。

昭和35年代
・・・・・・・・・・事故その1・・・・・・・・・・

新人にとっては、まだ山行も何もない、入部早々の4月に、上級生のみのロッククライミング訓練が、富士山の麓にある、三ツ峠の岩場でありました。
いつもニコニコしていた、2年先輩のNさんが、トレ-ニングとはいえ、墜落し亡くなりました。
私たち新人も、中央線、夜の新宿駅へ遺骨と関係者の出迎えに行きました。
新人にとっては、まだ合宿にも行っていないうちの山での事故死で、心に重く留め置きました。

・・・・・・・・・・コケコッコーの新人・・・・・・・・・・

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停止!のかけ声と共に反転し
ピッケルを雪に刺し命を救う訓練
5月連休利用の、穂高岳直下、涸沢での新人訓練合宿中、雪の急斜面での滑落停止訓練で、ピッケルの刃先で誤って自分の右目の上を、ザクリと切ってしまった、大出血のS君。
大慌てでテントまで戻り、血止めの黄色い粉をかけるやらして、どうやら出血は治まりました。
以後訓練には、復帰しましたが、右目の上には大きな絆創膏、頭には毛糸の三角帽子、もともと首を少し斜めにして振る癖があったので、鶏の雰囲気が漂い、コケコッコーのあだ名で呼ばれることになりました。

・・・・・・・・・・事故その2・・・・・・・・・・

10月の頃と思いますが、当大学の学生が南アルプス北岳(標高3193m)のバットレスで遭難し、学校当局よりわが山岳部に、救助の要請がありました。
急きょ、装備・食料品を調達して新宿駅より出発。翌日現地入りし、対策本部として、シ-ズンオフで無人となった、北岳直下の山小屋が手当てされました。
小屋までの沢沿いの山道は、台風による風倒木がそのまま放置され、荷でふくれ上がったキスリングを背負って、非常に歩き難い道でした。
私は小屋番の一人として残され、遺族や検死官の道案内にあたりました。
岩壁の下の雪の中で遺体として発見され、下の方まで難行のすえ降ろされました。
そこで荼毘にふすことになり、伐採の許可をもらい、全員で木を組み上げ、その上に仏さんを乗せ、野辺の送りが始まりました。

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風倒木の山林
燃える火の中で骨になるのを全員で見守って、おき火が無くなったのを確認して、山の夜も遅くなった中、引き上げることになりました。
下の山小屋までの山林の細い夜道を、一列縦隊で薄暗い懐中電灯を頼りに戻るわけですが、遺骨になるのを見た直後なので、列の最初と最後が誰になるかで、しばし紛糾した後、隊列はそろそろと動き始めました。
突然、後方にいたM先輩が「ウワ~誰かが俺の足を引っ張っている」と、世にも哀れな声を出して、悲鳴をあげました。
よく見ると、ほどけた靴の紐が、木に絡んで足を引っ張っていました。

昭和36年代
・・・・・・・・・・演劇部員・・・・・・・・・・

私が2年生になって、今年の新人をしごく役割になった時のことです。
鈍行の夜行列車で早朝松本に着き、その日の内に上高地から徳澤に入り、穂高の麓、涸沢のカ-ル(氷河に削られたお椀状地形)までが初日の行動となります。
この日の見せ場は、設営地直前の、雪の残る急斜面で、新人を一列横並びにして、約60kgの荷を背負ったまま、一番手を目指して競争させる。

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バス停上高地から歩き出す隊列
背中には食料・ナベ・設営具1式がズシリと
私は、大柄のO君を励ましながら愛の鞭をふるっていたが、「ああ~目の前が暗くなる」と言って、急にばったりと倒れてしまいました。
「う~ん」と言って気がついた後は、仕様がなく、荷物を降ろして、空身で歩かせましたが、1年後のある時、「あれは苦し紛れの、演技だった」と、ポツリと一言告白。

・・・・・・・・・・キセルその1・・・・・・・・・・

岩登り特別訓練で、先輩が個人的に三ツ峠の練習場へ連れて行ってくれることになりました。
私は、その朝寝坊をしてしまい、先輩たちの乗る新宿発の鈍行列車に乗り遅れ、丁度発車しようとしていた、特急に飛び乗りました。
特急なので途中下車できず、甲府まで運ばれそこで下車しました。

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三ツ峠岩場でのトレーニング
切符は買っていないので、検札が来ると、一輌ずつ移動している内に甲府に着き、下車してからは、改札も少し時間をかけてうまく通り抜けてしまいました。
甲府からは、河口湖行きのバスに乗り、御坂峠で下車し、裏山道を一目散に駆け上がりました。結果は、先輩達より30分遅れただけでした。
「きっと来ると思っていたよ」と言ってくれましたが、私は平謝り。
何てったって、肝心の、カラビナ・ハ-ケン・ザイルの登攀道具は、自分が持って来たのだから。
もし、来れなかったら、明日から部室へは顔出し出来なくなるのでとにかく必死で乗り継いで間に合いました。

・・・・・・・・・・山の戯れその1・・・・・・・・・・

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北ア夏山縦走中の大休止
2~3週間に亘る、北アルプスでの夏山合宿縦走中、静養を兼ねて、好天の日に1日間の沈殿日がありました。
昼寝も終わり、日向の中でお喋りをしている内に、時間を持て余してきました。
獲物は、疲れて寝ているテントの中の新人。
通風口から、こっそりとコショウを撒き散らし、くしゃみをさせて、密かに喜んでいましたが、上級生に直訴され、コショウ遊びは幕となりました。

・・・・・・・・・・山の戯れその2・・・・・・・・・・

キジ(大)を打つ時も、人から見えるような所で平気でやるS君。それには訳がありました。
S君は高校生の時から山登りをしていて、涸沢カ-ルでテント泊の時、例によってキジ打ちをしていました。

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穂高岳で訓練中、山小屋に飼われていた赤犬を囲んで
何を思ったのか、馬鹿なオスバチがいて、S君の大事なところを刺してしまいました。
キジも半端のまま、飛び上がったS君は、腫れあがった急所を抱えて、医大生のいる、夏だけの山の診療所へ駆け込みました。
珍しい患者なので、数人の医大生(勿論男ですが)に診察されましたが、それ以来羞恥心が消えてしまったようです。

・・・・・・・・・・アルバイトその1・・・・・・・・・・

剣岳での夏の定着合宿、剣沢から北アルプス表銀座を縦走して上高地で解散。
むさくるしい都会へ帰るよりもと、1年先輩のSさん、同期のS君の3人で、上高地から、涸沢カ-ルの上にある涸沢小屋までのボッカ(荷あげ)のアルバイトをすることにしました。
車輌の終点、上高地の倉庫から、明神池の裏にある養魚場兼宿泊場まで、前日の内に運んであった荷物を、背負子に括りつけて、朝6時30分に出発。
涸沢小屋到着午後3時30分。本日の出来高は60kg。帰りは空荷の下りなので鼻歌交じりに3人で元気よく宿舎へ。
でも、道が平らになってから、明神池まで結構長い。宿舎着午後6時30分。
登攀片道約14km、標高差900m、登りに5時間、下りに4時間が標準の時間ですが、頑張って重い荷を揚げたのでタイムオ-バ-でした。
2日目以降は、二人は休みで、私のみ稼働。今日の出来高は50kgでした。
帰る途中、プロの山岳写真家、Oさんに会い、初対面なのに自分の背負っている機材の荷揚げを頼まれ、500円の値段の提示に負けて、又来た道を再び涸沢小屋へ逆戻り。
小屋の人は、「え~また来たの」と少々あきれ顔でしたが、客を送ってきてくれたこともあり、腹が減っては帰れないだろうと、カレ-ライスを馳走してくれ、味も噛みしめないで立ち食い。
周りはもうたそがれ。懐中電灯も持っていないので、脱兎の如く暗くなりかけた山道を下る。
真っ暗になった下の平らな夜道は、ほんのり白く浮かび上がるのを確認しながらの下山でした。宿舎着午後8時。
3日目は、もうすこし楽して稼げる、リヤカ-での荷物運びに転職することにしました。

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留萌米穀の半天を着てアルバイトをしていた!
2人1組の仕事で、上高地から徳澤園まで運んで、1貫目20円也。
相棒は初対面で、私より多分若く、地元の人でした。
1回200kg程度を運び、1日2往復。2日間で200貫を運びました。
2人で運んだので、私の分は2千円。ボッカと合わせると、4日間で4700円の収入となりました。
当時、大卒の初任給が1万6千円頃のお話です

・・・・・・・・・・キセルその2・・・・・・・・・・

上高地でのアルバイト終了後、同級のS君が私のふるさと留萌まで遊びに来ることになり、キスリングを背負った山男姿のまま、上野駅から汽車に乗りました。
当然、鈍行に乗りましたので、青森駅に着くまでに当時は20時間かかりました。
所が、我々を台風が追いかけて来ていて、青函連絡船は運航停止。
二人の金を合わせても、所持金心細く、市内の質屋に行き借りる金の交渉。
私の大切なウイルソンのピッケルを質ぐさに「留萌から東京に戻る時は、間違いなく金を工面して戻るので、命の次に大切なピッケルを預けるから、値いっぱい貸して下さい」と言って、やっと千五百円借りることができました。
あまり金を使わないで時間を潰すには銭湯が一番と、体がふやけるまで風呂につかっていました。
6-10_thumb.jpg とはいえ、天候の回復が何時になるか判らないので、客で溢れかえる連絡船の待合室へ移動しました。
早速、寝袋を出して中でうとうとしながら持久戦を決め込んでいる内に、やっと出航案内がありました。桟橋を走り乗船。
函館港について、一番下の船倉から這い上がり、人、人、人で大混雑の中、入場券でようやっと列車に乗り込みました。
込み合う鈍行列車なので、検札もなかなか来ません。
とうとう函館から12時間かかって、留萌駅に着いてしまいました。
昔昔なので、改札を通らずキスリングを背負ったまま、また外へ出てしまい、函館~留萌間を、今度は2人分キセルしてしまいました。

昭和37年代
・・・・・・・・・・アルバイトその2・・・・・・・・・・

山形県の、大朝日岳冬山合宿終了後、1年先輩のSさんの赤倉の別荘で、いつも一緒の同期のS君と一緒に、元旦を過ごさせてもらう事になりました。
31日の大晦日に到着し、Sさんの家族、特にお母さんには滞在中、よくしてもらいました。
山の粗食から、お正月の御馳走へ、飢えた胃袋は自分でも呆れるほど、食べまくりました。
何時ものことですが、山を降りた直後は食欲が旺盛になります。
2日からは、長野まで行き、バスで志賀高原の一番奥にある、熊の湯温泉の硯川ヒュッテという旅館でのアルバイトに、S君と二人して出掛けました。
そこは、わが大学山岳部の指定運動具店 (分割払いが出来ます) からの紹介によるものでしたが、3食付きで1日300円という激安の条件でした。
喫茶店のウエイタ-や食堂の下働きでしたが、少し慣れてくると、何とか時間をもらって、目の前にある可なり急なゲレンデに滑りに行きました。
旅館のハッピを着ていると、リフト代は無料になるので最高です。
大晦日からお正月にかけては、旅館も忙しく、近くの村や町から大勢のお手伝いさんが来ていて、屋根裏の宿泊部屋は、いつも遅くまで賑やかでした。
1月16日に旅館に別れを告げ、同じ日に手伝いの終わったMちゃんと3人で長野まで出て、時間があったので、パチンコをしていました。
そこでMちゃんが、「今日は家に両親も居ないので、遅くまで遊んでいてもいいよ」と言い出しました。
その女心も労ってやれず、MITACの大きなキスリングを背負って、新宿行きの夜汽車に乗り込みました。

・・・・・・・・・・事故その3・・・・・・・・・・

剣岳、別山乗越、最終テント基地3月24日、午後1時30分。

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つかの間の快晴の中、弥陀ケ原で休憩中の荷上げ隊
剣岳方面へ、ル-トの偵察に行っていた内の一人、F君が、O工大の人2名と共に、急いで戻ってきた。
R大学山岳部のW氏が、平蔵の頭をトラバ-ス中滑落し、東大谷へ落ち行方不明で、当山岳部のN先輩は、現場に残り捜索中とのこと。
停滞でのんびりしていたテントは、慌ただしくなりました。
急遽、東京の連絡事務所へ救援依頼のため、R大1年生のI君を、電話連絡のできる美女平ケ-ブル終点まで、私がエスコ-トすることになり、午後2時15分にテントを出発しました。
一ノ越~室堂~途中でスキ-をつけ、天狗平への下降ル-ト付近より吹雪始め、殆ど白一色の世界になり、降り口が決められないまま、同高度を保ち、樹林帯までトラバ-スしてしまいました。
夕刻が迫ってきていたので、心は焦り始めました。
時に救いあり。
斜面を吹き上がってくる風に乗って、人声が聞こえてきました。
すぐ、樹林帯をまっすぐに下り、滑り降りてきたところは、何と弥陀ヶ原ホテルの真横でした。
時刻は既に5時過ぎ。
ホテルの無線で、上市警察と在京連絡者に待機してくれるよう頼む。
すぐ降り始め、雪明りの中、ケ-ブル終点の美女平ホテル着は午後7時。
在京連絡者数人へ連絡を入れる。
あいにく不在の人もいて、電話に出た人にとりあえず事情を説明。
帰宅後、電話を依頼する。
R大学に救援本部が出来上がったのが、丁度夜中の12時過ぎ。
就寝は2時過ぎでした。
翌、午前8時過ぎ、現地ガイドS氏へ3名の応援依頼。
東京よりの連絡で、部員4名、家族2名が、本日午後3時にケ-ブル起点の千寿原に到着。
明日早朝に、部員5名が食糧装備を持って到着することを知る。
私は、山に戻り、今までの情報を伝えることにする。
午前11時、ウイ-ゼルにて出発。
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天狗平を登り室堂方面へ荷上げ中の隊列
ホテルまで警察の方と同行。
ホテル発12時30分。
別山乗越のテント基地まで、一人とぼとぼと、スキ-登山。
基地着午後4時30分。
翌26日は、いよいよ剣岳のアタック日でした。
午前6:30テント発。
9:15剣本峰着。
帰路は吹雪き出し、視界不良。
雪崩の危険の高い、黒百合のコルでの登りのルートファインデングに時間を取られ、また、新雪のラッセル、前日までの遭難対策もあり、帰り道でかなり体力を消耗しました。
きつかった剣岳のアタックは、遭難の思い出と共に残っています。

・・・・・・・・・・山の戯れその3・・・・・・・・・・

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テントを埋める降雪が続くと昼夜除雪が繰り返される
吹雪で数日動けず、テントの中で停滞中に、いよいよ何もすることが無くなった真昼時、仲間に「あははは、あははは」と笑えば、本当に楽しくなるから、笑えとしつこく強要していました。
初めの内は相手にされませんでしたが、一人増え、2人増え、3人増えていく内に全員参加となりました。不思議なものです。こんな単純なことを、何回も続けている内に、本当に可笑しくなり、笑いながらテントの中に敷いてあった寝袋の上を、皆で転げまわっていました。

・・・・・・・・・・山のシケモク拾い・・・・・・・・・・

夏山合宿は長期になるので、終わる頃には、節約しながら飲んでいた煙草も無くなり、登山道で休憩すると、上級生は爪楊枝を持って、あちこちうろうろし始める。
特に岩陰が狙い目となるが、吸い終わって投げてあるシケモクを拾い上げ、フィルタ-も付いていないので、

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北ア夏山縦走中の大休止
寝袋や衣類を広げ日にさらす
短くなった根元に爪楊枝を刺し、スパスパと吸い始める。
そんな合宿の最後の日、20人ほどの隊列で縦走中、某女子大と狭い登山道ですれ違った。
我々の日焼けした、ぶちクロの顔を見た途端、下を向いて「プ~~」と声にならない声で笑っている。
風に乗って漂ってくる良い匂いがたまらない。
1ヶ月も風呂に入っていない集団から放つ、我々の刺激臭も相当なものだった筈だ。

・・・・・・・・・・熊を威嚇して追い払った男・・・・・・・・・・

11月の秋山合宿は、冬山に向けての雪上トレ-ニングを、富士山の大沢で行う。
例により鈍行列車を乗り継いで、夜中の2時過ぎに富士吉田の駅に降り立った。
駅前で準備運動をした後、真っ暗な中、3時頃よりパンパンの荷を背負って歩き出す。
1時間ほど歩くと、夜が白み始めるが、眠たくて眠たくてたまらない。
前の人のかかとを見て、同じ位置に足を運んでいる内、いつの間にか目をつむりながら歩いている。
石につまずき、はっとして正気に戻ったり、また寝ボケたりを繰り返しながら歩いている。
明け始めた光の中で、輪郭を持ち始めた岩や木や草が、寝ボケまなこには、人や動物や時には布団に見えてくる。
その富士山合宿に、都合で遅れ、一人で昼頃入山した2年生のF君が、少し離れた登山道に熊がいるのを発見。
とっさに唯一の武器である、ピッケルを取り出し、振り上げて「うお~」と威嚇したら、すごすごと逃げて行ったという、武勇伝もありました。

・・・・・・・・・・良家の山男達・・・・・・・・・・

長い合宿の後半になってくると、甘いものが無性に恋しくなります。
夏の暑い日差しに晒された縦走後の夜中のテントでは、冷たい甘いアイスクリ-ムの夢を何度も見ることがあります。
今は、画家となっているS氏は、冬山合宿中の12月23日が誕生日なので、母の手作りのアップルパイケ-キを荷物の中に入れて来て、皆に御馳走してくれたものでした。
荷の中で多少変形していましたが、歯ざわりのある、トロっとしたアップルの甘さが口の中で溶けておいしく、皆で歓声を上げて食べました。

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夏山縦走の最終日
飯もそこそこに下界に戻るうれしき朝
雪焼けでぶち黒に汚れた、嬉しそうな顔が、ローソクの光りの中で、揺れている様子が今でも目に浮かびます。
また、当時は粉末のインスタント飲み物が流行りだし、軽量ということで山行には利用していました。
その中に、「エノケン」が宣伝していた渡辺のシルコのモトというのがあり、冬合宿でこれを食べたF君がいたく気に入り、家に戻ってからも、毎日毎日、お湯で溶かして食べていました。
今で言うならシルコオタクです。

昭和38年代
・・・・・・・・・・大朝日岳の大失敗・・・・・・・・・・

山形県左沢(アテラザワ)の大朝日岳に2年連続の冬季アタックを敢行し、登頂に成功しました。
しかしこの成功には、苦い思い出があります。地元山岳会の人で、山に詳しく、案内もできる人がいるから、是非同行させて欲しいとの申し出があり、今回は初めてのル-トだったこともあり、一緒に行動することになりました。
これがとんでもない方で(失礼)、最初の内は持参した酒をテントの中で飲むやらで、我々も少々持て余し気味でした。
それでも、動きは悪くなく、アタック隊に加わり、見事登頂に成功しました。
しかし、すぐに猛烈な吹雪に襲われ、反対側にある直下の山小屋に避難しました。
何も見えない下降をしながら、一瞬見えた山小屋にほうほうのていで辿り着きました。
吹き続ける風雪のため、ここで3泊を余儀なくされました。
べ-スキャンプとも無線交信が取れず、お互いに音信不通になりました。
キャンプは尾根上に張ってあり、強風のため夜もろくに眠れなかったので、風陰に移動していました。
このために、電波が届かなかったようです。
一方避難小屋の方は、住環境は快適で、食料も用意してきたので安心でしたが、暖房のために使える余分の燃料はありませんでした。
同行の地元山岳会の人の提言を受け、小屋にあらかじめ運んであった某山岳会の灯油を借用することになりました。
但し、地元山岳会で3月までに、間違いなく灯油を荷揚げしますという条件付きでした。
その後、暖房用として、約30ℓほど使用しました。
4日目早朝になっても、外の風は相変わらず吹いており、また吹雪かと寝ぼけまなこで外を覗くと、何と快晴。
たちどころに荷を纏めて下山し、べ-スキャンプも撤収し、その日の内に麓まで一気に降りてしまいました。
冬山の大朝日岳登頂が成功したということで、地元山岳会の方も大喜びで、左沢町の自宅へ我が部員10名を一泊させてくれることになりました。
久しぶりの夜の街へ出掛け、ぐでんぐでんに酔っぱらって午前様となって戻って来ました。
翌朝、板張りの廊下には、泥のついた裸足の足跡が、干せて、いくつもいくつも、ついていました。
家の方には、大変迷惑をかけ、小さくなって早々に退散してきました。
その後いくら催促しても、待っても、灯油の荷揚げの報告は来ませんでした。

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大朝日小屋撤退の日
えびのしっぽのつく標識と山の鐘
そこで、3月の春山登山がはじまる前に、都内のK大学山岳部へ状況報告と謝りに行くことになりました。
誰も同行に手を挙げる部員が居ないので、行く電車の方向が単に同じということで、同期のS君に行ってもらうことにしました。
案の定、大勢の部員に攻められ、しどろもどろの答弁をして、平謝りに謝って、何とか勘弁してもらいました。
今考えると、よく許してくれたなと思います。

卒業後40年目に、当時の色あせた写真や資料を取り出し起稿
小 杉 忠 利

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